古嶽山 徳行寺

浄土真宗本願寺派

兵庫県たつの市揖西町住吉275 TEL:0791-66-0004   0120-004706

仏教法話

生きる力

臨済宗中興[リンザイシュウチュウコウ]の祖と称される白隠禅師[ハクインゼンジ](江戸中期)という高僧がおられます。この禅師には「苦しみは生かされる力」という逸話があります。

初夏の朝のこと、禅師は勤行[ゴンギョウ]を終えて庭の池の渕に立っていました。池には芦[アシ]が生えており、その茎に一匹のヤゴ(トンボの幼虫)が留まっているのに気付かれます。よく見ると今まさに最後の脱皮を終えていよいよ成虫(トンボ)になろうと難儀している最中でした。

禅師は暫くその様子を見ていましたが、あまりに苦しそうでしたので殻から出やすいように手助けしました。時間が経って羽も延びトンボらしくなったので、今度は飛び立てるように空に向かって放ってやります。ところがそのトンボは上手く飛ぶ事が出来ずに、バタバタさせながら地面に落ちてしまいました。

いずれ飛べるだろうと思い、そのままにしておきましたが、夕方になりふとトンボの事が気になって戻ってみると、哀れにも蟻[アリ]たちの餌食になっていました。

禅師は自分のした行為が間違っていた事に気づきました。

「生まれて来る苦(悩)しみがあるからこそ力が付き、大空を自由に飛び回る事が出来るのだろう。可哀想だと勝手に思い、要らぬ世話をしたばかりに、トンボを殺してしまった」と深く反省しました。

私たち人間も三毒(貪欲[ドンヨク]・瞋恚[シンニ]・愚痴[グチ])をかかえて、苦しみ悩んで生きていて、考えてみると先のトンボによく似ていると思います。

苦悩の心が深ければ深いだけその苦しみを越えていく力が備わります。しかしそのためには「いかなることがあろうとも、お前を見捨てん私がおるよ」と私を呼び続けて支えていてくださる阿弥陀さま[アミダサマ]の声に耳を傾けることが肝要です。阿弥陀如来さま[アミダニョライサマ]の本願力はすべての悲しみが功徳の水として苦悩の心を生かしめてくださっているのです。

和讃[ワサン]には

本願力[ホンガンリキ]にあいぬれば    むなしく過ぎる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて    煩悩の濁水[ジョクスイ]へだてなし

と詠んでくださっています。

お念仏もうす(南無阿弥陀仏を口に称える)生活は、悪いことが起こらないとか幸運に恵まれるというような苦しみから逃れられるようになることではなく、どんな苦難に出会うことになってもそれを乗り越えていく力をいただき、功徳の喜びが感じられてくるのであって、このことを「阿弥陀様に守られている」いうのです。

苦悩の姿そのまま「南無阿弥陀仏」を通して喜びに変えてくださるとは不思議としか言いようがありません。このことを転ぜられると言います。

「転ず」というは、罪を消し失わずして善になすなり、よろずの水[ミズ]大海[タイカイ]に入りぬれば即ち潮[ウシオ]となるが如し。弥陀[ミダ]の願力[ガンリキ]を信ずるが故に、如来[ニョライ]の功徳[クドク]を得しむるが故に、「しからしむ」という。始めて功徳を得んと計らわざれば「自然」[ジネン]というなり。
「唯信鈔文意」[ユイシンショウモンイ]より

このことを「転悪成善」[テンマクジョウゼン]といいます。悪いことや障りや罪が転ぜられて、功徳が歓喜に変化してくるのです。このことをまた和讃には

罪障功徳[ザイジョウクドク]の体[タイ]となる    氷と水のごとくにて
氷多きに水多し    障り[サワリ]多きに徳多し

と述べておられます。

仏教の不思議とは、まことにそのことであります。助かりようのない凡夫が仏になること、このこと意外に不思議はありません。

合掌[ガッショウ]